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2005/09/27 毒草の種蒔き:第三章「接近遭遇」


気持ちを集中することには力がいる、ということは誰でも知っている。
集中力を継続的に発揮すると、いつかはそれが途切れる時がくる。きっかけがあって
集中が乱れたような場合にはサッと消滅することがあるが、集中しきれなくなった
心に雑音が混じってきて少しずつ高まり、集中できないでいる自分を発見するという
まさにそのことで、集中が壊れる時がある。
張りつめていた緊張の残滓が神経を波立てる一方で、一度その緊張感をゼロに
クリアしないことには、もう一度あの集中の頂点には辿り着けないと分かっている。
そんな時、俺は煙草を吸いに外に出ることにしている。マンションの外に出て、駅前
ロータリーのベンチに座って、ぼおっと空を見上げたりする。

その日も一時過ぎ頃に、熱した気持ちのくすぶりを一度冷ます必要を感じた俺は、
家人を起こさないように、静かに鍵と煙草とライターと小銭入れだけを持って靴を
つっかけ、ドアを開けた。

瞬間、俺の部屋から遠ざかってゆくような足音がする。俺の部屋は廊下の端にあり、
こんな時間にそこに人がいることは考えられない。背筋をぞわぞわするような感覚が
走ったが、これ以上不安を掻き立てられるわけにはいかない俺は、素早くドアに鍵を
かけて足音が去った方へ早足で進んでいった。

エレベーターホールで足音が止まったと分かる。俺は平静を装いながらホールへの
角を曲がった。
背が高く、サングラスで、薄く髭を生やしたいかにも怪しい男が下りのエレベータを
待っている。ちらちらとこちらを窺っているが、もちろんその男も「俺が誰か」「俺が
その男の足音を追ってここに来たのだということ」を知っているのだ。
互いに知っていながらそれに触れないことで、俺とその男を含むエレベーターホール
には厭な雰囲気が充溢した。
その男は明らかに、俺が耳をそばだてていて、不審な足音を追って部屋を出たのだと
恐れている様子だった。それは実は誤解なのだが、俺にとってはその男の「恐れ」こそ
が不安だった。
突然その男がポケットからバタフライナイフを取り出し、慣れた手つきでバチンと
音を立てて刃を出すと、恐怖に狂わされたように意味不明の呻き声を漏らしながら
俺に襲いかかってきて、にぶい銀色の刃が俺の肩にざっくりと突き刺さり……といった
想像が俺に言葉を発することを躊躇わせた。

下りのエレベーターが来てドアが開くと、その男は突然エレベーターホールから出て
いった。俺はそれを追いかけるわけにもいかず、エレベーターに乗って一階へと下り
た。

携帯電話を持ってこなかったことを後悔しながら、俺は公衆電話から妻の携帯電話を
コールした。
「何?」眠りを妨げられた妻の声に俺が「何ともないか?」と言うと、電話の向こう
で妻の声が緊張して答えた。
「どういうこと?」
後で説明するからとにかく何があってもおまえから玄関のドアを開けるな、と俺は
言った。


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