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2005/09/20 毒草の種蒔き:第二章「ああ八階ですか……」
何事もなく日々が過ぎていった。不愉快な記憶は時間とともに薄れていき、それは
もう失われたに等しい状態にあった。もちろん結果的にはそれだけでは済まなかった
わけだが、この当時のことを表現するためにはこうとしか言いようがない。
人は「記憶」のことを写真のように喩える。それは明瞭で鮮やかな状態から、徐々に
褪せ、汚れ、薄く薄くなり、最後には真っ白になってしまうか、誰にも知られぬどこ
かへと喪失されてしまう。
しかし「記憶」というものが人にとってまるで自然のように抗い難いのは、それが
写真のような物質的な形を備えていないことによるのだ。
具体的な重みを持ったものであれば、薄れゆくということは取り返しようもなく薄れ
ゆくことなのであって、失われゆくということは二度と触れられないという確かな
事実であり得る。しかし「記憶」のように心の科学の配下にあるものは、そのような
具体的な物質との類比では捉えきれない動きをする。
例えばある日、廊下の突き当たりにある、非常階段へ通じる扉のノブカバーが消滅
する。
それは偶然に外れるようなものではなく、外すためには意志と力をもってしなければ
ならない。仮に何かの拍子に落下してしまったのだとして、それが隠れるような場所
は一切無い。そもそもこの場所に来る必要があるのは我々家族と宅配便の配達員く
らいのものだ。
もう失われていたと思っていた記憶が鮮やかに蘇る。本来は繋がりなど持たない
ふたつの事象が特別な回線で接続される。
ここで、何か、おかしな事が、起こっている。
「誰かがいたずらで持っていっちゃったんでしょうかね。そんなことしてもなんにも
ならんのですが……。まあ、新しいカバーは付けておきますし、周囲に何か変わった
ことがないか調べてはみますよ……」
管理人は妻にそう言いながら、憂鬱気な表情をした。しかし妻が気にしていたのは
その一つ前の言葉だった。管理人に話しかけた瞬間の言葉だった。
「すみません。八階のxxですが、ちょっと気になることがあって」
そう言って妻が話しかけた時、管理人はこころなしか表情を曇らせながらこう言った
ようなのだ。
「ああ八階ですか……」
管理人は取り繕うように、その階では廊下に煙草の吸殻が落ちていたりしたことが
あってなどと口にしたが本当に思っていたことは何なのだろう。
どういうことだ?
この階にだけ特別な何かがあるとでもいうのか?
表情を曇らせなければならないようなモノが棲んでいるとでも、いうのか?
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