知られたことのない星座 > for Philo-Sophia
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2005/05/09 何が変わって何が変わらなかったか
「何が変わり、何が変わっていないだろうか。
例えば俺について、
例えばこの10年間に」
などと問うてしまう自分がいやはや全く相も変わらず幼稚かつ頑迷にも根本的に変わっていないのだ。
しかし時には感傷的なことを口にするのも許してもらえないだろうか。俺はほとんど常に相も変わらず
本質的に情緒的で感傷的な人間なのだから。
ある種の人たちは言う。あるいは言わずにもその行為で主張する。
「過去を回想し、自己愛撫的に感傷に溺れるには早い。まだまだ私は自分に対する挑戦の途中であり、
過去への感傷など醜悪にさえ見える」と。
またそれは、ある種の年代には多く見られる意識状態なのかもしれない。
しかしそういう人間たちはいつか、自分の登高に区切りをつけ、自分を振り返ることができるのだろうか。
なにがしかの敗北感や喪失感や挫折感無しに。
まあ、いい。所詮は感じ合えぬ精神共のことだ。
とにかく、何が変わり何が変わっていないのだろうか。
恐ろしい程に変わらずにあるものがある。そしてそれは自分にとって重いものであるので、まるで俺は
自分が10年もの間何も変わっていないのではないかと、怖れ、訝る。
年月とは、通常我々が捉えている程莫大なものではない。
例えば100人の人間を考えてみる。自分と同じ歳の、100人を。これは容易なことだ。
そしてその100人の年齢を足してみる。長いものを縦に繋げるようなイメージで、足してみる。
するとその年数というのは、キリストの誕生なぞあっさりと抜き去り、「大昔」へと届いてしまう。
俺が子供の頃、俺の家の隣は田んぼだった。
小学校へ登校する近道は、舗装もされていない田畑を縫う道だったりした。その辺の小川にザリガニ採りに
出かけ、小魚などを見付けては思わぬことに喜んだ。アメリカザリガニは鮮やかな赤で大きく、子供たちの
間ではヒーローだった。水草のかげにヘタクソに隠れる土色の日本ザリガニを「ぼく」は嫌いではなかった
けれど、それでも子供の世界ではアメリカザリガニこそがザリガニの王者であり価値の現出だった。
俺は小学校を卒業し、少しだけ成長した自分をいとおしく思い、自分が小さい頃にしていた遊びを無価値で
冴えないものと断じて次の関心へと進んでいった。
ザリガニ採りを、27才になった自分が思い返す可能性なぞ考えられなかった。
そして今、日本ザリガニは絶滅の危機さえ言われるものとなり、アメリカザリガニはその圧倒的な繁殖力で
生息域を確実なものにしている。
20年で世界は大きく変わる。
そして同時に、200年はそう遠いことではない。2000年でさえも。
さあ、ここで俺は、10年間変わっていない自分の「核」である思いについて考えてみる。
そして次の10年間を想像してみる。
10年後、俺はおそらく生きているだろう。
10年後、俺はこの気持ちを抱き続けていられるだろうか?
これこそが自分そのものであると今は言える、この気持ちを失わずに生き続けていられるだろうか?
そして10年後に俺は、自分がザリガニ採りをした過去を、思い出すことができるのだろうか?
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